クリスマス離れと悟り世代
今朝テレビでちょっと耳にして気になったのが「若者のクリスマス離れ」と「悟り世代」という言葉でした。詳しくは知らないのですが、おそらくこの二つは関係しているんだろうなという直感が働きました。「クリスマス離れ」はツイッターの投稿数の減少から判断しているようですが、「クリスマス」に引き換え「ハロウイン」はツイッターの投稿数が上がっているとのことです。ある時期からクリスマスは家族団欒ではなく、恋人たちの日となりました。ということは「クリスマス離れ」は若者の「恋愛離れ」ということになるのかもしれません。
「悟り世代」というのは「ゆとり世代」の次に登場した世代だそうです。先日社会学者の宮台真司さんが、ラジオで映画「この世界の片隅に」を論評し、その中でフィジオクラシーについて話していました。初めて聞いた言葉ですが、日本語では重農主義と翻訳されているようです(宮台さんは誤訳だと言っていました)。
彼が語るフィジオクラシーとは秩序ある安泰な暮らしの始まりには、過酷な剥奪と贈与があるということでした。日本で言えば太平洋戦争で戦争による剥奪とアメリカからの贈与という出来事が起こり、その結果現在まで秩序ある社会が継続してきたということです。
しかし人は剥奪と贈与というカオスの時代のことはいつしか忘れてしまいます。「悟り世代」という言葉になにかこのことを感じてしまうのは僕だけでしょうか。混乱し大変だったカオスの時代を覚えているうちは秩序ある生活を普通にできるが、それを忘れてしまった世代は享楽、快楽、排外主義、戦争などのカオスに戻ろうとしてしまう。そんな中で人は何にも興味がわかない無の境地、命のない乾燥した悟りに至る・・・。仮に「悟り世代」がそうだと考えると、少なくとも何かをプレゼントしなければならないクリスマスよりは、内在している自分を表現し、個人的な充足感を得られるハロウインの人気も合点がいきます。
宮台さんが言っていたように、今の時代がひたひたと次のカオスに向かって転げ落ちているのだとしたら、おちおちもぼんやりもしていられません。
僕はゴスペルシンガーとも呼ばれる歌うたいなので、毎年この時期になるとクリスマスの歌を歌ってきました。しかし振り返ってみればこれまでクリスマスの説明はしてきたものの、そこにあるいのちを歌うことができていたのだろうかと自省の念に駆られます。「クリスマス離れ」も「悟り世代」も、今ある何かに心底うんざりしているのだと思います。そして僕はそのうんざりの重ね塗りをしてきたひとりかもしれません。
最近いつも心に浮かぶ聖書の言葉があります。それは創世記の「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日」そしてもう一箇所、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」支配という言葉は強い言葉ですが、支えて配慮するという意味に受け取る方がきっと聖書の伝えている意味に近いでしょう。
僕は、これまで僕たちに与えられているこの秩序ある暮らしが可能な世界に対して何かを貢献してこれたのでしょうか、自分を少しでも提供してこれたのでしょうか。少なくともこれからはそうして行きたいと願っています。そしてクリスマスが誰のために、どんな出来事として提供されたのかを歌える歌うたいになりたいと願います。
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