自己を放棄する歩み
日曜日にあまりに早い時間にベッドに入ったこともあり、月曜日は早朝というか夜中に目を覚ましてしまいました。しばらくはもうひと眠りできたらとベッドの中で過ごしていたのですが、しばらくしてトイレに行きたくなったのでベッドを出ました。
僕のベッド周りや廊下には本が散乱しています。読み終えたものが多いのですが、未読のものや途中で閉じてしまった本なども混じっています。ベッドに戻る時に廊下で一冊の本を手にしてベッドに戻りました。
その本はカナダのバンクーバーにあるキリスト教の神学校、リージェントカレッジの初代校長である。ジェームズ・フーストンという方の「神との友情」という本です。
前に読んだ時のしおりが240ページあたりに挟まっていたので、ベッドでその続きから読み始めました。すると242ページに書かれてある「自己を放棄する歩み」というセクションに心が動かされてしまいました。
この自己放棄は自分を神に明け渡すという意味での自己放棄です。神に明け渡すならば自分が振り回されている依存症や習慣や心を縛る様々なものから解放されて生きることができると語られています。そしてそのような生き方には、なんと最も自分らしさが現れる、とも記されてあります。
僕は教会へ通うようになって37年になりますから、このような勧めは何度も聴いてきたし、読んできたと思います。しかし月曜日の夜中に、これまでとは違う響きを伴ってこのテーマが自分に迫ってきたのでちょっと驚きました。
そして今朝になってからふとこんなことを考えました。それは自分が使う主語を僕や私ではなく、神にしたらどうなるんだろうということです。ちょっと危ない人のような感じもないわけではありませんが(汗)、これは自分が神になるとか神がかるとかいうことではなく、自分の前に神を置くということです。例えば神は僕にこの仕事を与えられた・・・とか、神は僕にこの友を与えられた・・・、というような使い方です。
これは自分からの解放ということなのかもしれません。私ってどうしてこんななんだろう・・・や、私がこんなに頑張ったのに・・・や、私がこれを何がなんでも・・・、ではないところに自分を置く。ひょっとすると私が・・・で生きていることが多くのトラブルの原因なのかもしれません。
試しに頭の中で「神は僕に〇〇を」という言葉を言ってみるだけで気持ちが楽になります。それって無責任っていうことじゃはないの、という声も聴こえてきますが、つまるところ人が何かができる、やり遂げることができる、と思っていることの方が無責任なのかもしれません。
「神が」と「僕が」のどちらで自分自信を理解するのか、どちらの捉え方、生き方が人の身の丈に合っているのかを、じっくりと思いを巡らしてみる必要がありそうです。
もちろん「どのような神が」が大切です。僕の場合は弟子たちの足を洗ったキリストが、ですね。
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コメント
ずーっと前に自作した曲を最近歌い直しているのですが、その歌詞に問われっぱなしのこの頃です^^;「握りしめてるものをみんな手放そう。本当の自由を得られるように」人間業では無理ですね。
投稿: まか | 2017年10月17日 (火) 22時42分
よくわかります。今回の記事もちゃんとやろうとしないことが大事かと(汗)。ちゃんとしていただく、の方が近いですよね。
投稿: ぶち | 2017年10月18日 (水) 06時08分